福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て * | |
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| 平 清 盛 と 福 原 京 跡 * | |
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「福原遷都まつり 829年祭」 撮影場所:宝地院 前 ・福原遷都まつりは、平清盛が京都から福原に都を移した 史実にちなんだお祭り。平家一族が京都から福原を 訪れた模様を再現した総勢200人のパレードが 平野町内を練り歩きます。 ・福原遷都まつり 829年祭概要 2009年6/27(土) 10:00〜 於:平野小学校くすのき校舎など 平安時代パレードには 200人以上の方が参加。 コース:宝地院出発(11:00)〜平野市場(商店街) 〜天王橋〜雪見御所の碑〜 平野小学校くすのき校舎到着(12:30) コンサート&アトラクション(13:30〜)なども |
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宝地院(神戸市兵庫区荒田町3-17-1 ) ・福原遷都まつりパレードの出発点になっているお寺です。 |
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宝地院の由来 ・宝地院は、安徳天皇の菩提を弔うために 弘安 2(1279年)に建立されました。 ・この近辺あたりに平清盛の弟・池の大納言頼盛の 山荘(別荘)がありました。 ・福原遷都の際には、この頼盛の山荘が 安徳天皇の安在所となりました。 |
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福原遷都八百年記念の碑 ・ 昭和五十五年の福原遷都八百年にあたり、 神戸史談会により建てられました。 ・この碑は荒田八幡神社境内にあります。 |
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荒田八幡神社 (神戸市兵庫区荒田町 3-16-1) ・すぐ南西にある宝地院にあった八幡社を明治初年の 神仏分離によってこの地に合祀してできました。 ・荒田八幡神社の東すぐにある 神戸大学医学部附属病院敷地内「楠・荒田遺跡」で、 平安時代末期の武家屋敷の二重堀や櫓の跡が 発見されています。 |
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史跡安徳天皇安在所址 ・治承4年(1180年)6月3日、福原へ遷都を行った際、 平頼盛の山荘に安徳天皇が入られた。 ・安徳天皇が荒田の地にいたのは1日だけで、 翌日には「雪の御所(平清盛公の邸宅)」に 移ったといわれています。 |
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平清盛の邸宅と伝える「雪見御所跡」の碑 神戸市兵庫区雪御所町2-1 湊山小学校の北西角 ・湊山小学校校内から、雪見御所のものとおぼしき 庭造り用の石が発見されています。 ・すぐ北にある湊山町からは、宴会で使われていたと思われる 素焼きの陶器の土師器、玳玻天目小碗を含む中国製 陶磁器や、均正唐草文宇瓦などが数多く出土していて、 この地が福原遷都の際の中心地であったと 推定されています。 ・平清盛は仁安2年(1167年)に太政大臣を辞して隠居、 病を癒すために、没するまでの約十年間を、 この雪見御所で過ごしたといわれています。 ・安徳天皇は、雪見御所のすぐ北に建てられた 「本皇居の平野殿」で半年を過ごしました。 ・そして、平安京に還都(1180年)が行われて、 福原京は夢と消えることになりました。 ・雪見御所は、清盛亡き後、平家が1183年源義仲に追われて 都落ちした際に、平家自らの手で焼き払られました。 |
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湊川上温泉(神戸市兵庫区湊山町) ・湊川上温泉は天王谷川沿いの鉱泉。 平野祇園神社の下流すぐの所にあります。 ・「山槐記」(1179)に「清盛邸を去る一丁(109m)にある 湯屋へ車で渡らせ給ふ」とあるので、 清盛はこの地に湧き出ていた鉱泉につかって、 病を癒したかと推測されます。 ・湊川上温泉の左手には山が迫り、 右手すぐを天王谷川が流れています。 |
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福原遷都とはいっても、わずか半年の「都」でした。 福原京が短命だった理由としては、 ・事前準備の不足 ・海と山にはさまれた地で、都をつくるに十分な土地を 確保できなかった ・遷都後の京都での政情不安などがあげらていますが、 「都をつくるには狭すぎる」という点については、 「東西十町、南北十五町の条理」区画の都というのは、 京都や奈良に比べれば確かに狭すぎるけれど、 しかし、軍事的観点からみると、都を防衛しやすいと いうことであって、清盛が福原・和田の地を都に選んだのも それがためですから、意見が分かれるところだろうと 思います(このことについては以下で改めて論じます)。 左写真は雪見御所跡碑のすぐ近く(石井川右岸)で撮影。 |
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左写真は石井川 ・雪見御所は、 左写真の川上・青い屋根の建物の向かって右側、 石井川と天王谷川の合流点近くにありました。 すぐ北側には六甲山系(菊水山)の急斜面が迫っています。 ・六甲の山並みは東西 50kmにもおよび、 海との間に広がる平地は狭く、細長い。 ・福原京は、その細長平地のほぼ中央、やや西寄りに あります。 戦上手だった平清盛は、宿敵・源氏との戦にそなえて この地を都としたのではないでしょうか。 |
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石井川にかかる石井橋を渡って、約 500m西進すると、 夢野八幡神社がある兵庫・夢野の地にたどり着きます。 夢野八幡神社(神戸市兵庫区氷室町1-5) ・平清盛が都の守護のため守護神として1177年に創祀。 ・平清盛はここに別邸(平教盛邸)を建て、 後白河法王を一時、幽閉しました。 ・夢野八幡神社は雪見御所の北西、山際の高台にあって、 福原荘全域を見守る地に創祀されました。 |
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氷室神社(神戸市兵庫区氷室町2-7) ・夢野八幡神社のすぐそばにあります。 ・仁徳天皇の兄に当たる額田大中彦皇子が遊猟の際に 氷室を発見し、仁徳天皇に氷を献上した故事に よって、氷室神社と呼ばています。 夢野八幡神社や氷室神社の近くに清水が湧き出ていて、 ここらあたりに、源平合戦のとき、平教経が陣取った ことから、夢野清水は「陣馬の井」と呼ばれています。 |
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熊野神社(神戸市兵庫区熊野町 3-1-1) ・平清盛が福原に遷都した際、後白河法皇の崇敬のあつ かった紀州熊野権現を勧請し、この地に祭祀しました。 熊野神社は、夢野八幡神社の南西の高台にあります。 夢野八幡神社や熊野神社があるあたりは、 雪見御所から見ると西北西の方向にあり、 雪見御所を見下ろせる位置にあります。 |
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左写真は熊野神社の鳥居。 熊野神社手前の道路は東北東方向に下っています。 熊野神社の南側はやや急な坂になっています。 会下山は熊野神社の南1km弱の所にあります。 ここら辺一帯は、源平合戦のとき、平家随一の猛将・ 平 教経が陣取ったことからも容易に推測されるように、 雪見御所の背後をかためる最重要軍事拠点・兵站基地 だったかと思われます。 そして、荒田八幡神社近くの平頼盛の山荘や、二重壕をめぐらし 逆茂木を重ねて陣を固めた楠・荒田遺跡の武家屋敷は、 前面の砦だったことになりそうです。 また、山手熊野神社(神戸市中央区中山手通7-28-30)の 近くにあったとされる五条大納言邦綱の「宇治新亭」も、 京都方面よりの攻撃に備える前面の砦だったかと 思われます。 |
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平清盛が病死したのは1181年で、享年63歳でした。 清盛は最晩年の10余年を雪見御所で過ごしました。 清盛がこの地に住んで尽力したことはふたつ。 ひとつは娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を 握る。もうひとつは、福原の都を軍事要塞化すること。 源氏との戦いに勝利し、清盛なきあとも繁栄し続ける…福原 を難攻不落の砦とすることは、清盛晩年の悲願でした。 そして清盛の死から 3年後(1184年)、清盛が想定した 場所で、想定した通りの合戦が起こりました。 平家は地の利を得て源氏との合戦に勝利するはずでした。 が、結果は清盛が想定したようにはなりませんでした。 軍事の天才・清盛が知略の限りを尽くして造った軍事 拠点に拠って戦ったのに、平家はなぜ敗れたのか ? 次のページにて論じます。 左写真は清盛塚のそばに建つ清盛像(兵庫区切戸町) |
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