| 福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て * | |
福原京跡と兵庫津の道 INDEX 平清盛と福原京跡 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編) 一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編)) (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース) 源平一の谷の合戦 余話 平清盛参詣道と丹生山田の郷 義経進軍路の謎 生田の森の陥穽 一の谷の迷路 兵庫津の道(平清盛) 兵庫津の道(高田屋嘉兵衛) <清盛 & 嘉兵衛の夢と神戸>考 神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道 |
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| 一 の 谷 と 福 原 京 を つ な ぐ 道 ( 平 家 編 ) * | |
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石井川(左)と天王谷川(右)の合流地点 ・石井川はここで天王谷川と合流。 ・清盛の時代には、湊川と呼ばれ、 まっすぐ南に流れていました。 ・1901(明治34)年8月に、神戸市兵庫区の会下山に トンネルを通して、西に流れる川(新湊川)となり、 さらに長田神社方面から流れくる苅藻川を併せて からは再び南流し、大阪湾に注いでいます。 ・この川は幾度となく氾濫したため、川の拡張工事が 行われて左写真のような川底の深い川となりました。 清盛の雪見御所は、 写真中央の森(現・雪御所町公園)の向こう側、 遠方に見える山並みの手前にありました。 |
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平野祇園神社(神戸市兵庫区上祇園町12‐1) ・石井川と天王谷川の合流地点から約1km先の 天王谷川沿いにあります。 平野祇園神社の公式ホームページ http://www.kobe-gionjinjya.com/ |
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石井川と天王谷川の合流地点から、石井川側を 約 1km上流にさかのぼると、左写真のところに出ます。 ・石井川は写真中央の所で左(西方向)に曲がっています。 ・大山咋神社(神戸市兵庫区山王町1-6-5)は この蛇行点の東側すぐにあります。 ・妙法寺(神戸市兵庫区天王町1-15-2)は 蛇行点の約100m上流の山の斜面にあります。 平野祇園神社と大山咋神社との距離は約700mです。 先の両川合流地点と、平野祇園神社と大山咋神社との 3点を結んだ逆三角形地帯に、 清盛・福原京の中枢部がありました。 清盛の砦は、川がYの字に流れ、このYの字の上の2点を 急斜面の山が横一に塞いでいる要害にありました。 |
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左写真は平野展望公園(神戸市兵庫区天王町)の 高台から見おろした雪御所町。 ・左寄り(東側)を流れているのが天王谷川 ・その先に広がる緑が雪御所町公園 ・写真右下から雪御所町公園へ向けて 石井川が流れています。 ・雪御所町公園を頂点とする二等辺三角形内が 雪御所町 |
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清盛・福原京を夢野八幡神社側から見ると、 左写真のようになります。 ・写真右上の高層街の下に広がる緑が「生田の森」です。 ・福原京は、町並みのほぼ中央、山寄りにありました。 |
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夢野八幡神社の南側は左写真のようになります。 ・写真中央の高層ビル群が神戸ハーバーランド。 ・清盛・福原京は写真中央の緑の帯の 左側あたりにありました。 ・神戸ハーバーランドの先には海が広がっています。 ・清盛・福原京から海までの距離は約 2.5kmです。 緩やかな傾斜を持った台地の山寄りに 清盛・福原京があったことがわかります。 |
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清盛・福原京の西側は、左写真のようになっています。 ・撮影地点は平野展望公園 (神戸市兵庫区平野町350-1) ・写真手前の茂みのすぐ下が清盛・福原京 ・山並みの奥、緑薄く写っているのが高取山 ・須磨は高取山の向こう側にあります。 |
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須磨は左写真のようになっています。 ・須磨浦山上遊園ロープウェイの中から 東側、神戸市街地を撮影しました。 ・神戸市街地が須磨の地で急にくびれています。 ・須磨の鉢伏山(246m)、旗振山(252m)は 海のすぐそばにあって、極めて急峻です。 この地に立って六甲の山並みを見ると、 アルファベットの「L」の字になっていることがわかります。 (長い長い縦線があって、横線がすごく短い「L」字) ・清盛はこの「L」の字の縦線の一番下の所に 福原京を築きました。 |
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清盛が生前に考えた陣形は、 ・雪見御所がある福原京と夢野の高地に主力軍、 生田の森に左翼軍、須磨に右翼軍を配置して、 源氏の攻撃に備えるというものでした。 ・形としては鶴翼の陣に近いですが、海を正面に見すえる 敵に対して横向きの「鶴翼の陣」で、 どちらかというと、専守防衛のための陣形でした。 源氏は福原京の地にこの陣がしかれていることを想定して、 ・源範頼主力軍を生田の森に、 土肥実平(副軍)を須磨に、 義経搦手軍を鵯越筋に配して、 平家軍を攻める作戦をとりました。 こうして、いよいよ開戦間近となりました。 が、ここで意想外の事態がおこりました。 |
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左写真は、鵯越墓園内の高台より望む神戸市街地。 ・右の緑のやや薄い山が高取山 ・左の山は鵯越筋 ・その山間のほぼ中央を、真っ直ぐ行ったところが 大輪田泊(現・和田岬近辺) 平家の総大将・宗盛は、安徳天皇を擁して、 ・本陣をこの大輪田泊の近くに構え、 ・左翼軍を須磨に、北側正面軍を夢野に、 右翼軍を生田の森に配し、 ・更に、上記3軍の間隙を埋めるように 須磨寺、明泉寺、平野祇園神社、北野天満神社 近辺などにも守備隊を置きました。 この宗盛の陣は「方円(ほうえん)」の変種で、 海岸線を背水の陣とした「半方円」の陣でした。 (大輪田泊を扇の要として扇子を広げた形) |
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この宗盛の陣形にはふたつの欠点がありました。 ・方円は全方位からの敵奇襲に対処する防御的な 陣形で、兵が拡散するため、局所的な攻撃に長時間 耐えることができません。 ・人馬による戦いは、高所に本陣を構えるのが定石 なのに、最も標高が低いところに本陣を置きました。 宗盛が大輪田泊に本陣を置いた理由としては、 ・平家が福原京の地に帰り咲いて約1ヶ月、 防御砦は清盛の時代ほど強固でなかったので、 北から源氏搦手軍が攻めてきたとき、 雪見御所はその前線に近すぎて不安だ、 ・形勢不利となっても、船5艘で海に逃れて 安徳天皇と三種の神器を護りさえすれば、 平家は滅びない、また再起できる、 のふたつが考えられます。 左写真は、大輪田泊近くから望む高取山〜菊水山。 (宗盛はこの山添を前線とする半方円の陣をしきました) |
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左写真は、烏原貯水池の手前高台より望む神戸市街地。 ・写真中央の鉄塔はNTT(兵庫区大開通3丁目) ・雪見御所は写真左の埒外 ・大輪田泊は写真右側の木に隠れて見えません。 雪見御所と大輪田泊は近くて遠いです。父・清盛と 子・宗盛の関係もまた、近くて遠かったようです。 清盛は清盛亡き後の平家を憂いて、 平家が耐え忍ぶ地としての福原京に固執しました。 宗盛は、船5艘に逃れて安徳天皇と三種の神器を護りさえ すれば平家は滅びない、福原京の地は西国転戦の 一時的軍事拠点のひとつでしかない、と考えました。 平家は、先代清盛の構想を堅実と評価する家臣団と、 それを時流を読めぬものとする家臣団とに分裂しました。 こうして、清盛の堅固な防衛型陣形と、 宗盛の船でいつでも戦線離脱できる「背水の陣」との 奇妙な合体陣形(半方円)ができあがったのでした。 義経はこれをどう攻略したのか、次のページへどうぞ |
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