
| 福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て * | |
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| 一 の 谷 と 福 原 京 を つ な ぐ 道 ( 源 義 経 編 ) * | |
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ここからは義経の話になります。 矢合わせは寿永3年(1184年)2月7日午前6時予定。 2月6日までの義経の行動を整理すると、 ・後白河法王から源頼朝に下った平家追討の命を 受けて、範頼・義経が京都をたったのは2月4日 ・2月5日夜、三草山の戦い ・2月6日、藍那・相談ヶ辻 と、 強行軍を続けて、2月6日夜には、左写真の鵯越碑の近く (半径500m圏内)に露営したのではないかと思います。 鵯越碑が建っている場所は、鵯越墓園(神戸市北区 山田町下谷上字中一里山12-1)の入口です。 このとき、源範頼(主力軍)は生田の森近くに、 土肥実平(副軍)は須磨・塩屋近くに進出していて、 源氏軍は開戦を待つばかりとなりました。 |
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義経馬つなぎ松(義経公御陣の跡) 撮影地:鵯越墓園内・高尾地蔵院 ・源平一ノ谷の合戦の際に、源義経が馬をつないだ とされる松。 ・1950年代に害虫被害に遭い、 現在は切り株を残すのみとなっています。 ・地蔵院は高尾山(403m)の山頂近くにあります。 この近辺が2月6日夜の義経露営地かと思われますが、 近くに炊事をするための水源がないので、 東側を流れるイヤガ谷川にかけての斜面だった のではないでしょうか。 |
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左写真は鵯越碑の近くから見た神戸市街地。 ・右中央に見える山が高取山 ・高取山の山裾の少し先の丸い緑の近くに、 2月7日早朝に戦があった明泉寺があります。 ・明泉寺近くの小山と地平線が交わる辺りに 大輪田泊(和田岬近辺)が見えます。 義経はこの写真アングルと同じ夜景を見て、 おのがが目を疑いました。 大輪田泊近くにおびただしい数の篝火がある。 ここに総大将・宗盛の陣ありとの報もある。 これは平家軍の奇計か ? 謀略か ? いや、違う。大輪田泊近くに、やはり平家本陣がある ! 義経は、翌朝の作戦変更を思いつきます。 「平家敗れたり ! 」 義経はそう思ったに違いありません。 |
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義経は北方面からの攻撃を最重要と考えていました。 ・平家軍は、生田と須磨の両翼から攻めるだけでは 陥落しない(その片方、あるいは両方を陥しても、そこ から福原京・夢野に攻めのぼるのは容易でない)。 ・特に福原京の兵站基地・夢野(山の手)は、 平通盛を大将軍とし、猛将・教経や、経正、経俊、 業盛、盛俊らを配備する堅塁で、 ・ここは北の高所から攻めるほかなく、 ・ここ夢野を制圧できれば、福原京は裸の城になる。 こう考えて、開戦前夜に鵯越の地に布陣したのでした。 ・明朝未明には鵯越筋を南下、 ・左写真(現・鵯トンネル上の、ひよどり展望公園)の 斜面に本陣を構えて、 ・北西高所より夢野(山の手)軍を攻撃する。 ・搦手軍を現・夢野大師福寿院を経て東進させ、 夢野(山の手)軍の直近高所を制圧する。 これが義経の最初の作戦だったのではないでしょうか。 |
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本稿が「義経・夢野(山の手)攻めの本陣」とする所は、 「ひよどり中央突破」説が「義経逆落し」の場とする坂と、 くしくも一致します。 本稿がこの地を「義経逆落とし」の場としないのは、 ・義経精鋭70騎が逆落とししても奇襲をかける先がない ・夢野(山の手)軍は不意討ちしてもすぐには陥ちない ・会下山に直進して、善光寺や宗盛本陣に迫ろうと しても、義経70騎の方が撃退される ・なぜなら、会下山は、夢野(山の手)軍陣地から南に 1km弱ほど下った所にある前面の砦(後に楠正成が 湊川合戦の本陣を設けた要地)で、ここをわずか 70騎で攻めれば、夢野(山の手)軍本隊の高所から の追撃を受けることになる、と考えるからです。 左写真は、「ひよどり中央突破」説が「義経逆落とし」の場 とする坂の上の方(神戸市長田区滝谷町12)。 ここら辺りから滝山町〜夢野口にかけての坂が、 「義経逆落とし」の場とされています。 |
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さて、開戦当日の義経ですが…、 宗盛が大輪田泊に本陣を設営したことによって、 義経は作戦をどのように変更したのでしょうか。 「夢野(山の手)攻めの本陣」 ・安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて(変更)、 ・ひよどり展望公園の下辺りに本陣設営(変更なし) ・先鋒をふたつに分けて(変更なし)、 ・右翼を明泉寺攻めに向かわせ(変更なし)、 ・左翼を夢野口の上に配して平家軍と対峙させる。 左翼は大音響を発して騒ぐが、深押ししない(変更) かくして、義経自らは夢野(山の手)攻めに加わらず、 わずか70騎を率いて別行動をとることになりました。 左写真は神戸市長田区滝谷町1丁目にて撮影。 明泉寺は古びた手前家屋のすぐ右上に、 夢野口は左の高層マンション辺にあります。 |
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明泉寺(神戸市長田区明泉町2丁目) 平盛俊がこの地に陣を張っていたことから、戦火で焼失。 観応2年(1351年)に今の地に復興。 父・知盛を助けようとして、近くで討ち死にした平知章の 塚が境内にあります。 宗盛の本陣が大輪田泊に設営されたことで、いろいろな 場所が、それ以前と違った意味を持つようになりました。 ・明泉寺の地もそのひとつで、明泉寺が安田・多田軍に よって抜かれると、約3km先にある大輪田泊へ至る 道で自然要害の地はどこにもなくなります。 ・平家は明泉寺の地を放棄することができず、ここが 形勢不利になると、夢野(山の手)軍からの援軍が 必要になります。 こうして夢野(山の手)軍は、開戦時に西方面への 火急の対応を強いられることとなりました。 |
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夢野(山の手)軍が、福原京の逆・西方面に気をとられて いた時、義経主従70騎は何をしていたのでしょうか ? 義経の考えはこうです。 ・宗盛本陣が大輪田泊に置かれることによって、 安徳天皇や三種の神器や総大将を護る兵は、 福原京の地から大輪田泊に大挙移動する。 ・福原京の地には、女・子供と、それを護る雑兵しか 残されていない。 ・夢野(山の手)軍が西方の戦にてこずれば、 福原京への配慮は疎かになる。 鵯越より福原京に入ることのできる烏原古道 (清盛参詣道)への関心も薄れる。 ・精鋭70騎が烏原古道を一気に下って、福原京に北から 奇襲攻撃をかければ、福原京は容易に陥落する。 左写真は神戸電鉄「鵯越」駅付近。烏原古道(清盛 参詣道)は左右の山が重なっている間を通っています。 |
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烏原古道は福原京から烏原川(石井川)を遡り、鵯越を 経て菊水山の西の谷を北進、小部、北五葉を通って 長坂山を越え、東下を抜けて丹生神社に至る道で、 清盛はこの道を輿に担がれて往復したとされています。 参考サイト:神戸市文書館 >烏原古道 左写真は烏原貯水池(1904年築造)の上流。 烏原古道が通っていたと推定される地 |
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鵯越筋よりこの烏原古道に入るには、 (1)斜めふたつ左上の写真の神戸電鉄「鵯越」駅付近か、 (2)現・兵庫区里山町の雑木林か、 (3)左写真の夢野大師福寿院に至る尾根の道なき道か のいずれかを選ぶ必要があります。 安田・多田軍の動向が気になるなら(3)が良く、できるだけ 早く福原京の北に出たいなら(1)がよいようです。 いずれを取っても、義経は烏原古道に入ることができます。 問題はどこから烏原古道に入るかではなく、烏原古道 のどこをどう下るか、尾根近きを行くのか、川筋近きを 行くのか、にあります。 義経は平家に気づかれないように、待ち伏せ攻撃に あわないようにしなければなりませんでした。 |
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神鉄「鵯越」駅から雪御所町までは直線距離で約 2km、 ここを歩くとなると、現在のハイキングコースでは4km弱、 よく整備されているので、下りは1時間もかかりません。 左写真は神鉄「鵯越」駅から烏原貯水池へ下る ハイキングコース。 石井川(烏原川)はガードレールの下を流れています。 |
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清盛は参詣道(烏原古道)を輿に担がれて行き来しました。 「義経70騎は2時間遅れで参戦した」というのが事実なら、 少し時間がかかりすぎています。 ・安田・多田軍の初動を見定めてから出発したか、 ・烏原古道沿いの尾根道を行ったか、 ・雪見御所に行かなかった(本稿が間違っている)か、 のいずれかだと思います。 本稿は、義経は安田・多田軍の初動を見定めてから、 ・兵庫区里山町の雑木林を経て烏原古道に入り、 ・烏原貯水池のある辺りから、東側の尾根道(写真 中央の山並み)に入った、と推定しています。 左写真は烏原貯水池と、その東側の山並み |
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左写真は烏原貯水池(1904年築造)。 ・烏原古道の一部はこの貯水池の下に沈んでいます。 ・烏原古道がどこをどう通っていたのか、 そこを義経主従70騎が下るとすると、 どれくらいの時間がかかったのか、 烏原貯水池が存在する今となっては 確認のしようがありませんから、 義経・福原京奇襲コースを詳細確定する ことは不可能です。 夏草や 義経主従 七十騎 夏烏 つはものどもの 跡もなく 俳子 |
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本稿では、義経・福原京奇襲コースとして 以下の 3つの基本コースを考えてみました。 ・コースの南限は、夢野大師福寿院を経て 都由乃町に至る尾根の道なき道。 ・中央路は烏原古道(清盛参詣道)。 ・北限は、神戸電鉄「鵯越」駅から現・烏原貯水池を 経て、烏原川の北山中の道なき難路を行くコース。 左写真は 烏原貯水池の少し下流にある山麓リボンの道標識 右に行くと烏原貯水池 左に行くと「祇園神社・諏訪山」に至ります。 |
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中央路は烏原古道(清盛参詣道)です。 ・烏原古道は、福原京の近くは 烏原川(石井川)に沿う道です。 ・烏原川の流水量が、清盛・義経時代にどれくらい あったかは不明です。 旧暦2月7日なので雨量少なく、水量は左写真ほど 多くはなかった、 緑の茂みも濃くはなかった、と思われます。 義経がこの川沿いを下ることは簡単ですが、 烏原谷は福原京近くになると谷深くなっているので、 平家の待ち伏せ攻撃にあうと、致命的打撃を受けます。 左写真は石井川上流。 撮影地は烏原貯水池の下(兵庫区天王町2) 2009年6月6日撮影 |
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南限コースは、 ・夢野大師福寿院を経て 都由乃町に至る尾根の道なき道で、 ・この尾根を東進すると、 左写真の民家群の地にたどり着きます。 ・左写真の右の茂みの向こうには、大山咋神社 (神戸市兵庫区山王町1-6-5)があります。 ・石井川はこの地で蛇行、 東に流れていたのが南進するようになります。 ・ここから南へ約 300m行くと雪見御所跡があります。 南限コースは、 夢野(山の手)軍の直近高所を横切るために、 平家軍に気づかれやすいという難点をもっています。 |
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北限コースは、 烏原川の北の山中の道なき難路を行くコースです。 烏原貯水池の少し下流にある山麓リボンの道標識を 北方向に上がると、左写真の地に出ます。 ・大山咋神社は向かって右の茂みの下部にあります。 ・雪見御所町は、この谷が終わったところに ひろがっています。 義経70騎が、現・烏原貯水池あたりから、 烏原川の北の山中に入って、この谷の上に出て来て、 ここから逆落としが行われた、と考えることもできます。 |
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大山咋神社(神戸市兵庫区山王町1-6-5) ・この大山咋神社と平野祇園神社の2地点は、 福原京の北面を固める軍事上の要地。 ・福原京本陣の兵が手薄になっていたとしても、 このふたつの砦にはまとまった兵が 置かれていただろうと思います。 |
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豊国稲荷神社(神戸市兵庫区平野獺谷401番) 豊臣秀吉公を神格化した豊国大神を祀る神社 ・豊国稲荷神社は大山咋神社の東側の 山中にあります。 |
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豊国稲荷神社筋(湊山)の急坂。 ・2009年6月27日に写真撮影したので、 樹木は鬱蒼と生い茂っていました。 一の谷の合戦当時は、炊事・暖房用の薪が必要 なので、今よりは間伐状態が良かったはずです。 ・黄色いガードレールの左に小さな川がありますが、 梅雨時なのに水はほとんど流れていませんでした。 ・義経が「鹿が降りられるところを 馬が降りられないはずはない」といったのだとしたら、 これくらいの急坂だったかもしれません。 ・この坂を下りると、大山咋神社と平野祇園神社の 中間に出ます。 |
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豊国稲荷神社の坂を下って下りると、 左写真のところ(湊山町)に出ます。 ・この地は古くは「堂仏」(天子がお住みになっていた所) といわれていて、安徳天皇が福原遷都の半年を 過ごした「本皇居の平野殿」があった所です。 ・また、清盛の長男・重盛の邸宅のあった地ともされ、 清盛存命中には、安徳天皇の前面を清盛が護り、 重盛が側面を護る陣形を整えた、 平家最重要拠点でした。 |
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豊国稲荷神社の鳥居の下から見た 豊国稲荷神社の坂(2009.11.29撮影)。 ・豊国稲荷神社は、写真正面の山の中央、 山の窪みにあります。 ・大山咋神社は、この地の西すぐの所にあります。 ・平野祇園神社は約400m東、天王谷川の向こう岸の 高所にあります。 平家・福原京「本陣」は、 写真撮影者後方 200mの所にありました。 福原京「本陣」は、平家軍の兵站を担う基地として、 平家全軍の兵糧を作っていました。 このとき福原京「本陣」にいたのは、平家有力武将に つながりのある女人・子どもと、 それを護る雑兵・老兵のみで、 しかも、この兵たちは、生田や須磨の陣が 破られた場合に備えて、頼盛の山荘など南面を 中心にして、南に向かって布陣していたのでした。 |
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このため、突如、現れた義経70騎に応戦できたのは、 大山咋神社近くの砦にいた守備兵30名のみでした。 ・この守備兵が義経70騎によって破られてしまうと、 福原京「本陣」北面は無防備状態となりました。 義経主従70騎は南進して、平家北面の屋形に火を放ち、 福原京「本陣」を急追しました。 夢野(山の手)軍は、義経奇襲に呼応した安田・多田軍の 北西からの総攻撃によって身動きがとれません。 福原京「本陣」守備兵は、 位の高い女人・子どもを逃がすのに手いっぱいで、 義経奇襲に応戦する術もなく、たちまちにして崩れ、 女人・子どもともども南の大輪田泊めざして 一目散に逃げ惑いました。 左写真は平野展望公園(神戸市兵庫区平野町350-1)の 高台から見おろした雪見御所町。 |
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赤旗を放り捨て、大輪田泊めざして逃げ惑う 福原京「本陣」の一団。 福原京に黒煙があがる中、それを猛追する義経主従70騎。 大輪田泊の宗盛本陣は、これを見て、 源氏の大軍が押し寄せてきたと錯覚、 戦う間もなく船5艘へと逃げこんだのでした。 こうして義経の福原京奇襲開始より 2時間後、 兵の数では源氏を圧倒していた平家軍は総崩れとなり、 午前10時頃には源氏軍の勝利が確定したのでした。 宗盛陣の弱点を逸早く見抜き、後世の人が誰ひとりとして 特定できなかった秘密の抜け道・烏原古道(清盛 参詣道)を通って福原京を急襲した義経は、まさに烏 のごとき黒き影となって戦場ヶ原を飛び抜けた「稀有な 軍事の天才」だった、としか言いようがありません。 左写真は、神戸市兵庫区にある兵庫運河にかかる 新川橋の欄干の「源平合戦図屏風」 |
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戦に生きる者は戦に滅びます。 福原京に最後の拠り所を求めた平家は滅び、この地に 残る平家史跡は数えるほどもありません。 勝者だった義経はやがて朝敵となり、奥州の地で自刃、 安田義定は謀反の疑いで梟首されました。 書に書かれた「歴史」は、勝者による勝者ための「歴史」で あって、敗者の真を伝えているかどうかわかりません。 「清盛と福原京」や「義経の一の谷逆落とし」はもっと再評価 されるべき歴史的事案だと思いますが、何をどう見直し たらいいのか、歴史家は苦労するだろうと思います。 その点、俳人は気楽で、自由に想像の翼を広げて昔を思い、 今を句に詠むことができます。 清盛が 都の跡や 青葉騒 俳子 左写真は夢御所地蔵尊。 庶民は、平家が栄えたときも平家が滅びた後も、 そうしたことに関わりなきかのように 静かに生き続けるもののようです。 |
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