
福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て * | |
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| 源 義 経 進 軍 路 の 謎 * | |
< 義経進軍路の概略 > 矢合わせは寿永3年(1184年)2月7日午前6時予定。 開戦直前の義経軍の行動を整理すると、 ・後白河法王から源頼朝に下った平家追討の命を受けて 範頼と義経が二手に分かれて京都から出発したのは2月4日 ・2月5日夜、三草山の戦い ・2月6日、藍那・相談ヶ辻 ・2月7日未明には、須磨一の谷か鵯越 義経が2月4日に京都を発って、丹波路を西進、 三草山(播磨国)で平資盛・有盛軍を撃破した後、 三木、藍那を経て、2月6日の夜に一の谷の近くに露営したとすると、 義経軍は土地勘のない丹波・西摂津の山中(約120km〜150km)を3日間で走破して、 翌朝未明には平家本隊との開戦が迎えたことになります。 義経軍がこの超強行軍を見事にこなすことは可能だったかどうか、 大いなる謎として、後世の歴史家諸氏を悩ませています。 < 義経進軍路の謎解き > 義経強行軍の不合理を解決する方法としては、 ・ 時間軸をずらす 鎌倉軍の京都の発向は、『玉葉』によると 1月26日、『吾妻鏡』は 1月29日、『平家物語』では2月4日 とあることから、『玉葉』や『吾妻鏡』の説を採用すれば、超強行軍でなくなります。 ・ ルートを変更する 三草山は能勢町と猪名川町の境にもあるので、 この地で三草山の戦いが行われたとすれば、超強行軍でなくなります。 ・ 事例を削る たとえば、義経軍は三草山の戦いに参戦していなかったとすれば、超強行軍でなくなります。 < 三草山の戦い > ・三草山の戦いは源平一ノ谷の合戦の前哨戦として戦われた ・播磨国・三草山付近一帯は開戦当時、平家の荘園地 ・一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、 平資盛・有盛・師盛・忠房らが三草山の西に布陣 ・義経軍は2月5日夜、民家に火を放って進撃 ・平家軍は不意をつかれて敗退 ・平資盛・有盛は高砂より海路で屋島に逃れ、師盛は福原の平家軍本隊へ戻る < 珍説「三草山の戦いは戦後処理戦」 > ・三草山の戦いは源平一ノ谷の合戦の前哨戦ではなくて、戦後処理戦だった、 という説をとなえたら、きっと歴史家に笑われるでしょう。 ・でも、情報精度の高い京都情報・義経京都出立日ですら、 1月26日、1月29日、2月4日の 3説がある世界ですから、 嘘を承知でちょっと寄り道をしてみましょう。 ・三草山の戦いに敗れた資盛・有盛は高砂より海路で屋島に渡ったという史実が唯一の頼り。 ・弟の師盛(14歳)が福原に逃げることができたのに、資盛・有盛はなぜそうしなかったのでしょう。 ・答えは、「平家敗れて福原に源氏あり、資盛・有盛は海路で屋島に逃げるほかなかった」 「弟の師盛は一の谷の合戦ですでに死亡していて、三草山には最初からいなかった」 ・平家に味方した唐櫃の多聞寺は、多田源氏の一族によって焼きはらわれ寺領を没収されました。 ・近隣の平家の荘園地は、一の谷の合戦後に源氏にことごとく没収されたことでしょう。 ・資盛・有盛は三草山に多田源氏軍が進出してくるやいなや、戦わずして逃走…。 < 義経進軍路は「開けてびっくり玉手箱」 > ・開戦前に義経はどこをどう進軍したのかを検証しようとするとき、 義経軍の超人的な強行軍ぶりの壁に突き当たります。 ・これは、後世の人がいろいろな思惑から「義経進軍路玉手箱」に余計なものを 詰めこみすぎたことから起こった混乱なのではないでしょうか。 ・本稿は、この玉手箱から試みに「三草山の戦い」という事項を取り除いてみました。 < シンプル義経進軍路 > ・範頼と義経が京都を出発したのはいつだったかについては、 後白河法王から源頼朝に平宗盛追討の宣旨が下ったのは1月26日。 源頼朝はこの時、鎌倉にいて、この宣旨を承るのは後日。 頼朝は、宣旨を発した法王への返礼の儀をすませずに、平宗盛追討の軍を発進できず、 範頼と義経は、鎌倉の判断を仰がずに追討の軍を動かすことができません。 鎌倉と京都現地軍との間に、大まかな打ち合わせが事前にできていたとしても、 1月26日の京都出立は考えにくいのではないでしょうか。 源頼朝は自ら上洛しないまでも、最低限、自筆の返書を後白河法王に届けなければなりませんでした。 当時の通信・交通手段で、情報が京都と鎌倉を往復するのに、どれくらいの日時が必要だったか、 1月29日に範頼と義経が京都を出立したとすると、源氏は相当手回しが良かったことになります。 それから、もうひとつ、1月26日か1月29日に京都を出発すると、 三草山の戦いをする義経軍には都合がいいけれど、 2月5日の夕方に伊丹の昆陽を出発して生田の森をめざすことになる範頼軍は、 昆陽に着くまでの1週間余の長きを、どこで、どう過ごしたのか、の疑問が残ることになります。 範頼軍が、人の行き来が激しい西国街道筋・約70〜80kmをゆっくり、ゆっくり進軍すれば、 それを察知した平家軍は、それだけ強固に防備を固めることができるわけで、 このリスクをおかしてまで遅行する事情が範頼軍にあったかどうか、 明解なる説明が必要となります。 ・本稿は、「2月4日に京都を出発、2月7日未明に一の谷の地に立った」という説に賛同して、 義経は最小限何をしなければならなかったかを考えてみました。 ・義経は戦に勝たなければなりません。三草山に資盛・有盛の陣があると、 平家軍本隊と対峙したとき、背後をつかれる危険性があるかどうか。 あれば、事前に取り除く必要がありますし、 なければ、わざわざ播磨の国まで遠回りする必要はありません。 ・義経は2月7日未明には本戦場にいなければなりません。 遠回りして三草山の戦いにてこずれば、失着となります。 ・義経は進軍しながら陣容を整える必要がありました。 義経軍は関東源氏の単独軍ではなく、地元・摂津国の多田源氏軍(実働部隊)との混成軍でした。 義経軍全軍が京都で陣を整えて出立したと考えるより、 どこかで多田軍兵などを吸収しながら進軍したと考えた方がよさそうです。 ・本稿は、資盛・有盛軍は本戦場より離れすぎた弱小軍なので憂いなし、 義経軍は丹波路を行かず、範頼軍と最初は行動をともにし、 西国街道を池田で分岐して西進、伊丹・宝塚あたりで多田軍と合流したのち、 湯山(有馬)に進軍した、と推定しました。 (義経進軍路玉手箱にもうひとつ余計なものを入れてしまっただけかのしれませんが) < 義経軍と丹生山田の郷 > ・湯山(有馬)を過ぎたあたりから、平家の実効支配圏。 これから先はなにが起こるかわかりません。 ・義経軍は土肥軍・多田軍を含めた全軍の進軍を開始します。 義経軍の兵の大半をしめる多田源氏・地元軍は、 失地回復、領地拡大の好機到来なので、士気が高いようです。 ・義経軍は開戦直近の小競り合いは回避したかったでしょうから、 平家に味方した多聞寺のある唐櫃は迂回する必要がありました(註1)。 現在の岡場方面から丹生山系に入って尾根道を行き、 稚児ヶ墓山を過ぎてすぐより下山、東下に至り、 道案内人(後の鷲尾三郎義久)を得ます。 義経軍は総勢千騎はいたのではないでしょうか、 なんらの手出しもできない丹生山&坂本を右後方に見ながら、藍那に進軍しました。 ・丹生山田の郷の義経軍への思いは複雑だっただろうと思います。 義経軍の道案内人として猟師の子せがれひとり(註2)を差し出した事実が物語るのは、 平家にも源氏にも付きたくない、後でどちらからも咎めだてされたくない、 という消極的な対応しかとりようがなかった ということだろうかと思います。 (なお、丹生山田の郷は、平清盛が東大寺から山田荘を譲り受けて領主となる以前に、 保安4年(1123年)より源頼朝の祖父・源為義の所領だったことがあり、 源義経はその縁を頼って、この地に進軍してきたとする異説があって、 この説をとれば、本稿の推論とは違うストーリーが考えられます。 丹生山田の郷にとって「源為義の所領だった」過去の遺産が重要だったか、 それとも直近の清盛統治の影響の方が重いウエートをしめていたのか、によって、 丹生山田の郷の義経進路軍への対応の仕方も変っただろう と思われますが、 この問題については、別ページ「清盛の墓を捜す旅」にて改めて論じます) ・戦国時代末期、羽柴秀吉軍と三木城主別所氏を盟主とする播州大連合とが2年近く戦った 三木合戦(1578〜1580年)に際しては、丹生山明要寺の僧兵、淡河領民、山田の一向宗徒たちは、 兵糧攻めにあう三木城への食糧補給を行い続けて、最後には秀吉軍の焼き討ちにあいました。 ・丹生山田の郷は三木城とは地縁的なつながりが強かったけれど、 平家・福原京とは、それほどでもなかったのでしょう、 平家より古い時代の繋がりしかない源氏軍がやって来たとき、抵抗らしい抵抗をしませんでした。 清盛が漠然と感じていた危惧、恐れていたことが現実のものとなりました。 (註1)・時は2月5日夜、平家「唐櫃多聞寺」兵が義経進路軍を阻止せんと 攻撃をしかけるも、あえなく撃退されて、唐櫃多聞寺に逃げ込み、 焼き討ちにあう、というストーリーなのですが、 「唐櫃・多聞寺の焼き討ちは源平一の谷の合戦の前哨戦」だったという 珍説をとなえたら、また歴史家に笑われるでしょうか。 ・源平一の谷の合戦直後に、平家拠点として明白な唐櫃多聞寺に 平家残党が隠れ住んでいたでしょうか。 もし仮に、源平一の谷の合戦後に、平家につながりがある者が 唐櫃多聞寺に隠れ住んでいたとしても、 多田源氏の兵がやってきたら、焼き討ちのめにあうほど戦うでしょうか。 逃げ出すか、あるいは平家とは無関係面をして 源氏に恭順の意を表するか、しただろうと思います。 ・唐櫃・多聞寺には、大勢が決した合戦後に多田源氏と戦う意味がありません。 唐櫃・多聞寺が戦う意味があるのは、平家が健在だった開戦の前だけです。 ・唐櫃・多聞寺の焼き討ちは、戦後処理戦ではなく前哨戦だった、 義経進路軍は2月5日夜、唐櫃の地にいた、という珍説…。 ・この説の良いところは、 義経軍が湯山から山田荘・東下に進軍するのに、 時間のかかる丹生山系の尾根道難路ではなくて、 天王谷越古道に通じる湯乃山街道(現・有馬街道)沿いを行った、 とすることができるだけでなく、そして、なによりも、 翌2月6日に敵前近くに進攻する義経軍の「超強行軍」が解消される、 という点にあります。 ・2月7日未明に天下分け目の合戦をしかける義経軍が 合戦前日の2月6日をどう過ごすかは極めて重要で、 単に敵陣に迫れば、それでいいというわけではなく、 進軍の兵の疲弊を取り除いたり、兵糧を確保したり、 敵陣情報を収集して作戦会議を開いたり…、すべきことは数多くあって、 三草山の敗兵を追っかけまわしたり、隠密行動とか称して 土地勘のない山中を長時間、猛スピードで駆け抜けたりして…、 余計なことをすれば、戦う前に疲労困憊して、負け戦になってしまうわけで、 「義経進路軍が2月5日夜、唐櫃の地にいた」説は捨てがたいのですが、 「唐櫃・多聞寺の焼き討ち」がいつ、どのように行われたのか定かではなく、 本稿はこの珍説を裏付けるに足る史実も、 否定できる史実も確認できていません。 (註2)・「猟師の子せがれひとり」というのは差別的表現かと思いますが、 鷲尾三郎義久氏は名家・鷲尾家の開祖的人物なので、許してもらえるかと存じます。 義久という名は、源平一の谷の合戦の武勲により、義経から一字をもらってつけました。 鷲尾三郎義久氏は、この合戦により個人的は栄誉を得ただけでなく、 丹生山田の郷が合戦の前と後の二度の苦境を切り抜けることに貢献しました。 ・義久少年がいたから、丹生山田の郷は唐櫃・多聞寺にならずにすみました。 比喩的にいえば、丹生山田の郷は、清盛の丁石があるにもかかわらず、 後に弁慶の釣鐘(安養寺)を所有できる郷に、スムーズに移行できたのでした。 ・義久氏以降、鷲尾家は栄え、白川、多井畑にも同名の名家ができました。 が、これは後の時代のこと。 ・義久少年は、白川や多井畑に分家を持たぬ、東下の「猟師の子せがれ」で、 田畑もなく、掘っ立て小屋に住んでいたので、平家が戦に勝った時には、 親子で山田の郷から出奔すれば、お咎めも、そこまで。 もし、義久少年が開戦当時、東下のみならず白川、多井畑にも分家を持つ 鷲尾家の人であったなら、平家が戦に勝った時には、 源氏に協力した責は鷲尾家だけでなく、山田の郷にも及んだことでしょう。 ・本稿は、義久少年は東下の「猟師の子せがれ」、 義経は、白川や多井畑ではなく、東下で道先案内人を得た、 義経進軍路のうち、「東下〜藍那」ルートは確定的である、 という説をとりたいと思います。 < 藍那より先の義経進軍路 > ・藍那まで進軍して来た義経軍は、藍那・相談ヶ辻で軍議を開きます。 藍那・相談ヶ辻で何が相談(軍議)されたかについては…、 ・範頼・義経軍が京都を出立した時の源氏軍の平家攻略の基本戦略は、 源氏主力軍を生田の森に、副軍を須磨に配して、平家を挟み撃ちにするというもので、 ・須磨をめざした義経副軍の進軍路としては、 京都から丹波路に入って三草山を経て須磨に入る遠路よりも、 京都〜池田〜湯山(有馬)〜東下〜藍那〜須磨へと進軍する最短路が、 難路が少なくて、大規模敵襲のリスクも少なく、最も合理的でした。 ・そして、藍那まで来た義経軍が須磨に行く道は、そのまま南西の方向に 白川・多井畑に至る緩やかな坂を下るのが自然で、 ・藍那・相談ヶ辻で南寄りに迂回するのは、この時点で 当初作戦計画の重大変更があったことを示唆しています。 ・なぜ「重大変更」なのかというと、火急事態が発生していないにもかかわらず 現場指揮官がその独自判断で勝手に基本戦略を変更するのは、 軍規違反に他ならないからです。 ・義経軍の一部を平家軍の北面へ進出させるという、この作戦変更は、 藍那から鵯越筋へ通じる道があるという東下の猟師のルート情報を得た 義経の強い意志によってなされました。 ・須磨の平家砦は堅牢で、攻め落とすのは容易でない。 ・平家軍の北面(鵯越筋)に進出できれば、平家軍の高所を制圧できる。 ・そうなれば、平家も 3方面に兵を分散せざるをえなくなる。 ・平家北面に兵をさいて須磨攻めの兵の数を減らしても、 その兵で塩屋谷川上流の高所を制して、須磨砦を遠巻きに包囲すれば、 圧倒的な地の利を有する須磨・平家軍は、 その優位性を失うことになるかもしれないような深追い攻撃をしかけてはこない。 ・主戦場は生田の森にあり、副戦場の須磨では源氏は負けなければ、それでよい。 義経はそう考えて、作戦変更したのでした。 ・須磨攻めの兵を二分する、この作戦変更によって、 もし土肥実平軍が須磨での戦いに敗北すれば、 その敗北の責は土肥実平軍にではなく、義経にあることになります。 ・それから、戦に勝利しても、義経は後でこの軍規違反を咎めだてされるかもしれません。 が、義経は意に介しませんでした。 義経は頼朝の弟で、しかも直参ではなく新参者で、遊軍の雄でした。 そして、義経はどうすれば戦に勝てるかを知っている軍事的天才でした。 義経は決断すべきことを坦々と決断したのでした。 ・そして、藍那・相談ヶ辻での相談(軍議)の結果、義経軍は二手に分かれて、 鎌倉軍ゆかりの兵を中核とする土肥実平主力軍約700騎は、 藍那〜白川〜多井畑を経て須磨をめざし、 義経搦手軍は南進して高尾山に至り、鵯越筋をめざすことになりました。 ・義経と行動を共にしたのは、義経直参の兵と、 安田義定に代表される鎌倉・関東の独立系源氏の兵と、 平家復権によって危機感を募らせる地元・多田行綱軍などで、その数、およそ300騎でした。 彼らは、どちらかと言えば非主流・下級の兵で、軍規違反の責を問われても、 失うものがほとんどない、戦で武勲をあげることだけを願う者たちでした。 おおいなる勝利か、しからずんば死か ! 戦に負ければ、逃げおおせても死かそれに等しい処遇 ! 言うなれば、自らの意思で退路を断っての出撃 ! こうして彼らが藍那・相談ヶ辻で土肥実平軍と分かれて鵯越筋に進軍を開始した、 まさにその時、源氏最強の軍団が誕生していたのでした。 ・なお、「義経軍は藍那・相談ヶ辻から高尾山に南進した後に 高尾山〜白川〜須磨一ノ谷のルートを西南進した」とする説は、 義経軍がなぜ、子どもでも歩ける藍那〜白川の近道を行かないで、 藍那から高尾山へ迂回してまでして高尾山〜白川の道なき難路を行く 必要があったのかが説明不足で、 現・しあわせの村周辺の地理・地形を知る者としては納得しがたいです。 ・追記:本稿執筆後、 「義経軍は藍那・相談ヶ辻から高尾山に南進した後に高尾山〜白川〜須磨一ノ谷のルートを 西南進した」とする説は、以下のように変更されました。 「高尾山付近から山中に入った義経は鷲尾三郎義久の案内により…、 獣道を通り、妙法寺の西に出、それから西南に向かい多井畑に出た。 義経はようやく鉄拐山に辿りつくと…」 この新説の問題点は、 ・高尾山から須磨一ノ谷までは直線距離でも約 8km近くあり、 しかも、どのルートを通っても、山また山です。 ・旧暦2月7日(立春直後)の日の出は遅く、6時を過ぎてからなので、 日の出を待って高尾山(蛙岩)を出立したら、 午前8時頃に須磨一ノ谷の坂にたどり着くことができません。 ・夜明け前の空が白みはじめるころに出立しても、山中は足元不如意です。 「獣道を通り、妙法寺の西に出」て、多井畑、鉄拐山に人馬を進めるのは、 時間がかかって大変だっただろうと思います。 ・開戦は午前6時の約束なので、 義経は、その時刻に須磨一ノ谷に到達していたかったでしょうから、 相当早い時刻に高尾山(蛙岩)を出立したのでしょう。 ・が、未明、まだ暗いうちに、土地勘のない山中を進軍するのは簡単ではありません。 義経は「獣道」を行くのに松明を燃やしたのでしょうか ? 未明に敵前近くで松明を燃やして進軍して奇襲を敢行する ? こんな奇妙な奇襲は多分ないでしょうから、 義経は、きっと闇深き山中の獣道を、無明のまま進軍したのでしょう。 ・が、六甲山は50万年前ぐらいから隆起してできた比較的若い山で、断層が多く、 義経の出発地点とされている高尾山・蛙岩も、南面は断崖絶壁ですし、 高尾山の西側・妙法寺筋も谷深いですから、 義経は獣道で何度も何度も立ち往生したことでしょう。 ・高尾山の裾の南面・東面に露営した義経が未明に出立して須磨に行くルートは、 高尾山の尾根道を北方向(藍那方向)に引き返して、 藍那近くで「藍那〜白川」の古道に入る以外は考えようがないですが、 これだと、「義経が藍那から須磨一ノ谷に行くのに、 なぜ高尾山へ迂回しなければならなかったのか」の謎は、解けないままです。 蛇足ながら、「高尾山〜福原京(雪御所町)」関連のデータはどうなっているかというと、 ・高尾山から福原京(雪御所町)までの直線距離で約 3.5km。 ・清盛が輿に担がれて「福原京〜丹生神社」を往復したとされる 「清盛参詣道(烏原古道)」が高尾山の東側すぐを通っています。 ・鵯越筋との関係でいうと、 高尾山から鵯越の尾根筋(鵯越筋)を約3km直南下すると、夢野に出て、 鵯越筋の東側の谷筋(烏原古道)を南下すると、福原京(雪御所町)に出て、 鵯越筋の西側の谷筋を約3km南下すると、平盛俊の陣営・明泉寺に出ます。 ・義経が開戦前夜の露営地を高尾山に選んだ理由は、 平家軍中央・北面へのこのアプローチの良さにあるのであって、 「須磨一ノ谷へのアクセスの良さ」にあるのでは断じてない、と思うのですが…。 < 藍那より先の土肥実平軍の進路 > ・義経軍の兵の多く(約700騎)をまかされて、藍那・相談ヶ辻で義経軍と分かれた土肥実平軍は、 白川・多井畑を経て、兵の一部を鉄拐山より旗振山へ入れようとしますが、 すでに2月6日には平家軍の須磨布陣は完了していて果たせず、 土肥全軍を塩屋谷川の上流や西岸の高台に配して、明朝の開戦を迎えることになりました。 ・これに対する平忠度の軍は、 塩屋口に先鋒隊(主力軍)、鉢伏山の麓に本陣、現在の一の谷町に後詰めを縦一列に配し、 塩屋口〜旗振山(253m)〜鉢伏山(246m)〜須磨口の尾根沿いに守備隊を並列させました。 陣形としては鋒矢(ほうし)の一種だろうかと思いますが、 山岳地に守備隊を配し、更に須磨寺近辺に後方支援基地を置いて 強力防御型陣形を整えており、鋒矢陣形としては特異な形でした。 ・平忠度軍が布陣した地は、急峻な山と海の間に延びる約2kmの隘路(幅は広い所でも100m足らず)で、 清盛が福原に都を構えた第一の理由が、この須磨鉢伏山・旗振山の堅塁だったことを勘案すれば、 平忠度軍の布陣はこれ以外にはありえなかった、と思われます。 | |
![]() 須磨海水浴場より須磨の浦を望む。 濃い緑の山並みの稜線の向かって左(海に近い方)の高嶺が鉢伏山。 須磨海岸の砂浜は山の手前、堤防のあるところで途切れています。 その先は山が海に落ちていて、須磨の浦の海岸が極めて狭いことが分かります。 山並みの三分どころに点在する白い建物辺りに平忠度の本陣があったと推定しました。 |
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| ・この土肥・忠度両軍の布陣は平忠度軍に圧倒的に有利で、これが単独の戦だったなら、 土肥軍は倍の兵をもってしても、あるいはまた、首尾よく一の谷町側に兵を迂回できたとしても、 平忠度の堅陣を容易に破ることはできなかった、かと思われます。 ・とはいっても、土肥軍が塩屋谷川沿いに進出して塩屋口を塞ぐように布陣できたことの意味は大きく、 これによって、平家は西国からの援軍を期待できなくなり、更には、 平家が再度、西国に逃れて再々起をはかろうとしても、退路が断たれている、ということになりました。 ・戦は陣形のみによっては決しません。開戦当日、 朝に平家に有利に働いた須磨の浦海岸の隘路が、夕べも待たずに平家の息の根を止めました。 清盛が難攻不落と考えた砦が、平家難行不脱の関に変りました。 そして、最後には、この地に逃げのびて来た平敦盛らの非業の死があって、 須磨は、まさに盛者必衰、因果応報、諸行無常の『平家物語』の クライマックスを飾るにふさわしい地になりました。 ・義経搦手軍のその後については、一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編)をご覧ください。 < 平家敗走の時系列 > (1) 義経70騎奇襲〜福原京陥落と大輪田泊への敗走〜大輪田泊の平宗盛本陣の自壊と船への逃避 (2) 生田の森主力軍の退却と西への敗走〜夢野(山の手)軍の孤立化 (3) 夢野(山の手)軍の陣放棄と南への敗走〜須磨旗振山軍の孤立化と西への敗走 ・平敦盛や平重衡などが須磨に逃げてきたのは、平家の船が須磨沖で待っていたからですし、 制海権を掌握していた平家の船が大和田泊を離れて須磨沖に停泊していたのは、 まだ須磨旗振山軍が陥落していなかったからでしょう。 ・平家副将軍・平重衡は生田の森より西方に逃れて、 「平重衡とらわれの松跡(現・山陽須磨寺駅)」にて捕縛。 ・平敦盛は平家山の手陣より逃れて、須磨の海岸で討死。 須磨寺に、「敦盛公首洗いの池」や、敦盛公首検分の「義経 腰掛の松」があるのは、 ここが終戦の地であった証左でしょう。 ・平忠度は須磨旗振山本陣より西方の敵前を突破して、明石人丸にて討死。 平忠度は平家武将の船への逃避を見届けるまで須磨砦を死守したため、 自らが落ちゆく先は、この時すでに源範頼主力軍によって占拠されていた東の長田ではなく、 西の明石しか残されていませんでした。 ・ 義経奇襲によって須磨一の谷から平家軍崩壊が始まり、 それが東の生田、北の福原京・夢野、大輪田泊の平宗盛本陣の全戦線に波及して、 合戦後半には、平家武将たちが須磨をめざして、逆方向(西や南)に逃げてくるというのは、 平家軍と源氏軍はいつ、どのようにして入れ替わりえたのか、大いなる疑問で、 時系列的に無理があるのではないでしょうか。 < おわりに〜平家の敗因〜 > ・平家の敗因を軍事面から考えると、その第一はやはり、 平宗盛本陣を大輪田泊の低地に置いて半方円の陣を敷いたことにあると思います。 方円は全方位からの敵奇襲に対処する防御的な陣形で、人数が拡散するため、 局所的な攻撃に長時間 耐えることができないという欠点があり、攻撃を受けた場合には、 直ぐに別の陣形に移行して戦闘する必要があるとされているにもかかわらず、 平宗盛は開戦後にも陣形を変えませんでした。 義経奇襲部隊の突入によって、平家軍は一挙に崩壊しましたが、 もし義経がいなかったとしても、 兵を広く薄く布陣させた宗盛の半方円陣形は、いつか、どこかで綻びを生じて、 平家軍は敗退を余儀なくされていたことでしょう。 (清盛福原京は都を造るには狭すぎ、守り戦をするには広すぎたようです) ・平家の敗因の第二は、 北面防備が以外なほど手薄だったことにあると思います。 この点に関しては、平清盛参詣道と丹生山田の郷をご覧ください。 ・平家の敗因の第三は、 清盛陣形の陥穽ともいうべき「生田の森」陣形にあると思うのですが、 この点につきましては、生田の森の陥穽をご覧ください。 ・いずれにしても、平家軍は戦略的・戦術的に多くの問題をかかえていました。 平家の敗因をひとことで言えば、 「清盛戦略はあったけれど、確固とした宗盛戦略はなかった」 ということだろうと思います。 ・もし平家軍に勝てるチャンスがあったとしたら、 ・徹底した清盛戦略の遂行か、 ・「安徳天皇と三種の神器」堅持の宗盛路線を採用するのなら、 開戦前に宗盛本隊を船5艘で離脱させて、 たとえば加古川の西に布陣して兵を募り、 明石川の西、さらには福田川の西に進出して、 塩屋口に布陣する土肥実平軍の背後を突く戦法にでるかの どちらかだったのではないでしょうか。 ・が、『平家物語』の作者が言うように、奢れる者は久しからずや、 平家は戦に勝つ術を知らず、滅びへの道を行くしかなかったのでしょう。 ・そして、源平一の谷の合戦の凄いところは、 敗者やそれに繋がる者は根絶やしの目にあい、勝者ですらも、 源義経・安田義定・多田行綱など、名だたる戦の功労者の多くが戦後に失脚して、 鎌倉幕府の公式記録から微妙に脱落してしまったために、 誰が、どこで、どう戦をしたのかすら明らかでなくなった というところにあろうかと存じます。 凄まじきは戦に勝った者にも負けた者にもあらずして、げに この一事にあり ! 奢るるも 猛しも滅ぶ 春の夜 俳子 |
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