福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て             * *

     福原京跡と兵庫津の道 INDEX   平清盛と福原京跡

                             一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)
                            一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 
                               (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース

                            源平一の谷の合戦 余話
                               平清盛参詣道と丹生山田の郷
                               義経進軍路の謎
                               生田の森の陥穽
                               一の谷の迷路

                            兵庫津の道(平清盛)
                            兵庫津の道(高田屋嘉兵衛)
                            <清盛 & 嘉兵衛の夢と神戸>考

                            神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
    
            一 の 谷 の 迷 路                                    *

   < 新説「一の谷=烏原谷〜福原京」 >
       ・本稿では「一の谷=烏原谷〜福原京」としましたが、
           こんな勝手な命名が許されるのかどうか、以下に検討したいと思います。



   < 「一の谷はどこか」論争 >
       義経が逆落としたとされる「一の谷」がどこにあるのか、現在論争中です。
          何をどう論争しているのか、整理すると…、
            ・『平家物語』『吾妻鏡』では、「義経らが駆け下った場所は鵯越」とされているにもかかわらず、
            ・『吾妻鏡』『玉葉』『平家物語』では、「義経が一ノ谷の陣を攻略した」となっています。
            ・一ノ谷(神戸市須磨区一の谷町)は、鵯越(神戸市兵庫区鵯越町)の西 8kmの地にあります。
          義経が「鵯越を下って 8km先の一ノ谷の陣を攻略する」ことが短時間に可能かどうか、
            この矛盾をどう解決するかで、論争されています。

       この問題に対する答のいくつかを紹介すると、 
          (1) 逆落としは鵯越ではなく、鉄拐山の東南の急峻な斜面(一ノ谷)で行われた。
          (2) 逆落としは鵯越で行われた。
              ・須磨区の一の谷は江戸時代に初めて現れた地名
              ・「鵯越の麓、福原の南、福原の湖、難波一の谷」(一遍『一遍上人縁起』)こそが一の谷という説
          (3) 逆落しは荒唐無稽であり、信じるべきではないという説
              ・「逆落し」記載が当時の一級史料である『玉葉』にない
              ・「逆落し」は『平家物語』が創作した虚構
          (4) 「逆落しの場所がなんと呼ばれていたかはよく分からないけれど、
              合戦の帰趨を決める いの一番の谷だから、一の谷」という新説(珍説)

       本稿は(4)説をとりますが、なぜそうするかは後述します。
          その前に、地名の変遷(その興り廃り)の機微を理解するために、ちょっと寄り道しましょう。



   < 俳子庵と清盛参詣道 >
       ・六甲山系には、谷が山ほど(谷が谷ほどかなぁ)あります。
       ・俳子庵の現住所は神戸市北区鈴蘭台○町ですが、
          兵庫区に属していたころの町名は「字 池の谷」でした。
       ・なぜ「池の谷」というかというと、近くにわりと大きな池があったからで、
          今はそこに高層マンションが建っていて、
          ちょっと前まで池があったことや、池の谷と呼ばれていたことを知る人は少なくなりました。

       ・俳子庵の前に立っている電柱の識別表示が、イケノタニ××番となっていましたので、
          改めて確認すると、ニシノタニ△△番に変っていました。
       ・電柱には「ナカハタヤマ」という識別表示も併記されていて、
          どう命名しようと、まあ、電力会社や電話会社の権限内なのでしょう。

       ・市街化が進んで、「ナカハタヤマ」の頂きがどこにあるのか不明ですが、
          俳子庵の近くには「どんぐりやま」というのもありました。
          「ナカハタヤマ」の峰のひとつで、
          どんぐりが採れただけでなく、謎めいた秘密の基地などもある山でしたが、
          今は家が建ち並んでいて、「どんぐりやま」の面影はどこにもありませんので、
          「どんぐりやまはどこにありますか?」と尋ねても、誰も答えられないでしょう。
          というよりも、「どんぐりやま」というのは俳子庵の住人のみが知る山の名で、
          愚息が子どものころ、「どんぐりやまに遊びに行く」と言っていたから、
          そう呼ぶようになっただけのことで、これはまあ、言ってみれば、家族の勝手でしょう。

       ・俳子庵の所在地に関連したことを調べていたら、ちょっと因縁めいた話ですが、
          なんとまあ、清盛参詣道から目と鼻の先のところに俳子庵があるのです。



   < 一の谷の由来 >
       一の谷がどうして一の谷と呼ばれるようになったのか。
          本稿の推理は以下の通りです(あくまでも推理の域をでませんが…)。

       ・一の谷の「一」に注目してみましょう。
          広辞苑(旧版)によると、<名>(1) 数の名。ひとつ。…
                            (2) 最もすぐれたこと。また、そのもの。第一。首位。最上。一等。最善。
                            (3) 最初。…
                         <接頭>(1) 或る語に冠して、確定しない或事・或物を指す。「一日」。…

       ・『平家物語』の作者・語り部になって考えてみましょう。
          「で、その義経が逆落とししたのは、なんという谷 ?」
             そう聞かれて、語り部は困りました。
             合戦の地には行ったことがないので、谷の名など知りようがありません。
             谷は山があればいくらでもあって、名のない谷だったかも知れません。
          「それは、う〜む、天下の義経様が逆落とししたくらいの谷だから、
             決まっているでしょう、そうです、いの一番の谷、一の谷です。
             この一の谷を逆落とししたから、義経様は勝った、それに違いありません」
          ちょっと落語の世界に迷いこんでしまいました。


       ・迷走ついでに、創作民話『いちのたに』というのはどうでしょう。

             むかし むかし、鳥原谷(とりはらたに)と いう ところが ありました。
             きれいな 鳥(とり)が いっぱい くる 谷(たに)で、
             むらびと たち は、とても よろこんで いました。

             ある とき、九郎 義経(くろう よしつね)と いう さむらい が やってきて、
             うつくしい 鳥(とり)の はね を 一本 ぬいて もって いって しまいました。
             鳥(とり)は たちまち くろい 烏(からす)に かわって、
             きみ の わるい こえ で、
             「カァ カァ、 はね 一本 かえせ」と なき ました。

             谷(たに)に 烏(からす)が くる ように なると、
             むら に よくない こと が つぎつぎと おこりました。

             むらびと たち は 
             烏(からす)の たたり と おそれました。
             この とき から 
             谷(たに)は 烏原谷(からすはらたに)と よばれる ように なりましたとさ。

          鳥原谷(とりはらたに)から一の谷(いちのた)を引くと、
             烏原(からすはら)になるというのは、できすぎでしょうか。
             でも、後世の人は誰も、烏原谷(からすはらたに)に
             一の谷(いちのた)が隠されていることに気づいていないのですから、
             こんな民話があるといいのですが…。



   < 一の谷の迷路を抜けて >
       ・源平一の谷の合戦時には、「一の谷」と呼ばれていた谷は存在しませんでした。
           義経逆落としの地が「一の谷」と呼ばれるようになったのは、『平家物語』以後のことで、
           『平家物語』の作者を含めて、後世の人は誰も、その地を特定できていません。

           「一の谷」の地名から探しても、その地にたどりつけない以上、
           地名的観点からすれば、「一の谷」はどこにあってもよく、
           「一の谷=烏原谷〜福原京」説であっても、
           他の説と五十歩百歩の差しかないのではないか、と思います。

           義経の一の谷逆落としはあったのか、なかったのか、
           あったとすれば、一の谷ははどこにあったのかの問題は、
           源平一の谷の合戦全体の位置づけのなかで総合的に考察して
           答をださなけれがならない、と思います。



   < まとめ 奇襲攻撃としての「義経逆落とし」 >                                      *
       ・義経の一の谷逆落としは、織田信長の桶狭間の戦いとともに、日本の代表的な奇襲戦とされています。
       ・奇襲とは、『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
         「奇襲(きしゅう, surprise)は、敵の予期しない時期・場所・方法により組織的な攻撃を
           加えることにより、敵を混乱させて反撃の猶予を与えない攻撃方法をいう。
           敵の混乱に乗じて、士気を減衰させ、より大きな損害を与えることが期待できる」とあります。
       ・奇襲とは、ひとことで言えば、敵の不意をつく攻撃。
           開戦 2時間後に、背後に迂回して須磨平忠度軍の後詰めを攻撃したり、
           宗盛半方円陣のど真ん中に位置する会下山の陣を攻撃したりするのは、
           定石的・正攻法的戦法であって、奇襲とはいえないのではないでしょうか。
       ・「開戦 2時間後の奇襲」というのは自家撞着で、
           敵の不意をつく攻撃は、もうほとんど不可能に近いですが、
           敵が攻めて来れるはずがないと油断していたなら、ありえないわけではありません。
       ・源平一の谷の合戦初期において、
           平家が「源氏がすぐには攻めて来れるはずがない」と思っていた所が2ヶ所ありました。
       ・ひとつは、宗盛本陣が置かれていた大輪田泊。
           宗盛陣形は全方位からの敵奇襲に対処する防御的な陣形(半方円)なので、
           いずれかの防御線が破られないかぎり、大輪田泊が攻撃を受けることはありません。
           生田、須磨、鵯越から、かなり離れた位置にある、この大輪田泊に、
           開戦 2時間後に突如、平家の他の部隊が対応できないほどのスピードで迫り、
           宗盛本陣を直撃・急襲できれば、敵の不意をつく奇襲が可能ということになります。
           たとえば桶狭間の戦いのように激しい雷雨だったとか、あるいはまた、
           濃い霧の中、船を使って海から攻撃するとか、奇襲の方法はいろいろあったと思いますが、
           しかし、義経70騎が急坂を下って、坂から遠く離れた海岸近くに進撃するというのは、
           開戦前の暗がりの中ならともかく、朝方の平家陣形が乱れてもいない開戦初期には、
           敵の不意をつく奇襲たりえません。
       ・もうひとつは、福原京(現・雪御所町)。
           清盛陣形では本陣が置かれていて最も堅固な場所ですが、
           宗盛陣形では、この地に配備されるはずの近衛兵は大輪田泊にいて、
           この地は、平家有力武将につながりのある女・子どもと、それを護る雑兵のみのいる空の砦でした。
           雪見御所・福原京は自然要害の地にして、生田からも、須磨からも遠いですが、 
           直近北面の防御は尾根ひとつあるのみでしたから、
           この地を護るに十分な兵がいなければ、必ずしも安全とはいえませんでした。
           宗盛は「清盛陣形」のことを「知っていた」ので、雪見御所の地は堅塁と錯覚していたけれど、
           清盛陣形のことをよく理解できていなかったので、
           雪見御所近辺が無防備になっていたことに気がつきませんでした。
           義経は清盛陣形のことを熟知していましたので、
           雪見御所砦の虚をつく奇襲攻撃を、すぐに思いつくことができたのでした。
       ・義経が「一の谷逆落とし」の難行をおこなったのは、敵の不意をつく奇襲攻撃を仕掛けるがためでした。
           そして、開戦2時間後に義経が到達した先は、雪見御所・福原京の北面の坂しかありえませんでした。



   < まとめ 新説「義経逆落としコース」 >
       ・新説「義経 70騎の逆落としコース」を要約すると、以下のようになります(地名表示は現在名)。
           鵯越筋〜ひよどり展望公園(6:00)〜鵯越筋〜兵庫区里山町の雑木林〜烏原貯水池(烏原谷)
           〜菊水山の南西裾野山中(7:00)〜関ヶ谷〜豊国稲荷神社〜湊山〜雪御所町(8:00)


       ・義経逆落としの場は、豊国稲荷神社(神戸市兵庫区平野獺谷)の本殿上から大鳥居にかけての坂。
           この地の豊国稲荷神社の由来については、
             ・豊国稲荷神社は豊臣秀吉公を神格化した豊国大神を祀る神社なので、
                できたのは、源平の世のはるか後の世のこと。
             ・神戸の空の下で。〜近畿の史跡めぐり〜 >豊国稲荷神社によると、
                最初は兵庫城の中(現在の神戸中央卸売市場付近)に造られていましたが、
                明治初年の神仏分離策により、1874年(明治 7年)にこの地に移設されました 。
                なぜ、この地が移設先に選ばれたのかについては、
                「1596(慶長元)年には豊臣秀吉公がこの地の住人・正直屋寿閑に対して
                湯坪取り立ての朱印状を与えた」という史実があって、
                豊国稲荷神社は「奥平野の温泉の守り神」として
                この地に鎮座することになったと伝えられていて…、
                兵庫県庁に近くて、豊臣秀吉公ゆかりの地だったからと推定されており、 
                本稿にとって都合のよい由来話はないようです。
             ・が、清盛が晩年10年を過ごしたのに、その痕跡すらほとんどないような
                歴史の空白多き地ゆえ、後世の人が義経逆落としの坂と知らずに
                この地に豊国稲荷神社を移転する、という事だってあるのではないでしょうか。

          豊国稲荷神社の本殿が、参拝するには極めて不便な、道なきに等しい道を行った高所にあり、
             更には、この坂の下が清盛の雪見御所跡碑のすぐ北(約300m)に位置していて、
             義経逆落としの坂の 3要件
               「鹿道と平家が布陣する馬の背(註3)とは僅か2〜300mの距離」
               「鹿道となる崖は落差45m」
               「勾配の急なところは35度」 をほぼ満たしていることから、
             この坂を義経逆落としの地と特定しました。


             (註3)「平家が布陣する馬の背」とはどこかについては、
                ・現在の地名でさがすと、須磨アルプスに「馬の背」というのがあります。
                   横尾山を東に行って東山に至る途中の岩尾根が「馬の背」のようになっているので、
                   そう呼ぶようですが、歩くのも難儀な鎖場があるため、
                   ここを「平家が布陣する馬の背」とする人はいないようです。
                ・石井川と天王谷川に挟まれた雪御所町は、地形的には、まさに「馬の背」そのものです。
                   東と西が川で、いずれの川底から見ても雪御所町は高台になっていて、
                    まるで馬の脇腹下から馬の背上を見上げるかのようになっています。
                    雪御所町の高台の中央部が少しくぼんでいる所まで、馬の背に似ています。
                   馬の頭の方から「馬の背」を見下ろす構図で考えてみても、
                    鹿道(義経逆落としの坂)が馬の首筋、雪御所町が馬の背で、
                    荒田八幡神社あたりが馬の尻となって、
                    雪御所町がやはり馬の背です(下の写真をご参照ください)。
                ・「雪御所町=馬の背」以外の第三の「馬の背」をご存知の方があれば教えてください。
                   (鳥取砂丘の馬の背などはダメです。義経逆落としの坂が特定できる馬の背限定です)
       

   
        ・平野展望公園(神戸市兵庫区平野町350-1)の高台から見おろした雪御所町。
               左寄り(東側)を流れているのが天王谷川、その先に広がる緑が雪御所町公園。
               写真右下から雪御所町公園へ向けて石井川が流れています。
               この川と緑で縁取られたダルマ型の地が雪御所町で、「馬の背」に載せられた鞍に見えます。
        ・義経が「鹿道」の上から、これとほぼ同じアングルで「平家布陣」地を見たとするならば、
               義経はやはり「平家が布陣する馬の背」に向けて逆落とししたと表現するほかありません。
        ・なお、豊国稲荷神社(神戸市兵庫区平野獺谷401番)の坂は、
               この写真の撮影地から約100mほど西寄り(写真向かって右の埒外)にあります。
               「上写真の右下に写っている木立が左下にある構図」の写真を思い描けば、
               豊国稲荷神社の坂から雪御所町を見下ろす情景となります。

        

   < 「義経逆落とし謎解き」の旅を終えて >
       ・「義経逆落とし謎解き」の旅が終わりました。
           源平一の谷の合戦のことが書かれた書に可能なかぎり目を通し、
           源平一の谷の合戦の現場となったであろう所をくまなく、何度も歩いて、
           清盛ならどう考えただろうか、義経ならどう行動しただろうかに思いをめぐらせる、
           義経逆落とし謎解きの旅…。
           思いおこせば、一の谷の迷路の先もまた迷路でした。
           試行錯誤を繰り返して、何度も振り出しに戻って…、
           そして、やっとたどり着いたゴールが、「豊国稲荷神社の坂」でした。
           見たことも、聞いたこともなかった「豊国稲荷神社の坂」、
           こんな所にゴールがあろうとは、予測だにしていませんでした。
           が、長い長い旅のゴールは、この地以外にはありえませんでした。
           もし、この地が義経逆落としの地でないなら、
           義経逆落としそのものがなかった、『平家物語』の作者の創作だった、
           というのが、「義経逆落とし謎解き」の旅の結論となりました。

                          おぼつかな 年経るごとの 捩の花
                          青梅雨や 義経駈けし 鹿の道
                          荒梅雨や 豊国稲荷 神社坂     俳子



  平清盛は武士(もののふ)なので、彼の足跡をたどる旅が軍事面に偏るのは避けがたいですが、
     平清盛は大輪田泊の造営や交易にも尽力した人でもありました。
     そうした平清盛の夢とロマンと神戸について、以下に論及の予定です。   coming soon !

        
  
   
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