「鈴蘭台=西の軽井沢」文化・考  *

      平 龍生 著 『さよなら三角 また来て四角』 (桜出版) を読んで

 小説『さよなら三角 また来て四角』
   MARUZEN&JUNKUDO >さよなら三角 また来て四角によると…、
    『さよなら三角 また来て四角』という小説は、横溝正史賞受賞作家の自伝書き下ろし小説。
    六甲山麓の小さな街鈴蘭台。
    敗戦後最初で最後の卒業生となった「小部国民学校六年生」の子どもたちに忍び寄った戦争の影……。
    「縁故疎開」「神戸大空襲」「再度山の安全神話」「飢えと物資不足の欲しがりません、勝つまでは」の
    窮乏の時代。それでも、平和日本の一期生たちは明るく巣立って往った!!
    純な目をした少年少女たちの哀歓溢れる感涙、感動の物語!!

 作者・平 龍生
   ウィキペディア>平 龍生によると…、
    平 龍生(たいら りゅうせい、1935年4月5日 - )は、日本の小説家。
    兵庫県生まれ。本名・忠夫。早稲田大学文学部卒。
    広告業界で働いたのち、1972年「真夜中の少年」でオール読物新人賞受賞(平忠夫の名)、
    1983年「脱獄情死行」で横溝正史賞受賞。以後平龍生の名で小説を発表する。
    サスペンス、官能小説、ホラー、バイオレンスなどが主。
    ウィキペディアの外部リンクの項には記載がありませんが、
    平 龍生 氏はオフィシャル・ホームページを公開していて、
    「平 龍生 ワールド<無料電子出版>」にて、
    平 龍生 氏の小説を、どなたでも無料でダウンロード・閲覧できます。
    氏のHPの立ち上げは 2002年で、この時、日本のIT界は未だ黎明期…、
    1935年生まれというご高齢をも勘案すれば、氏の開明性は驚嘆に値します。
    (氏の開明性がどのようにして花開いたのかを明らかにするのが本稿の主たる課題です)

 わが街・鈴蘭台で生まれ育った作家が、鈴蘭台を舞台にした自伝的小説を書いて、2011年8月に出版。
    鈴蘭台の情報サイトを管理・運営している者が、その中身を知らないわけにはいかない…
    ということで、読んでみることにしました。

 本稿の筆者は神戸に住んで 40年近くになるけれど、ふるさとは神戸ではないし、戦前生まれでもない。
    『さよなら三角 また来て四角』で初めて知ることも多く、
    また、「ああ、この場面の舞台は鈴蘭台の××だ」と推定されることも多く、
    平 龍生 氏の巧みなストーリー運びにも助けられて、一気に読了しました。

 読後の気分は極めて良好でしたが、その全容を語るのは別の機会に譲るとして、
    本稿では、『さよなら三角 また来て四角』の登場人物のひとり、
    「羽島宏志」について考えてみたいと思います。
          

        <金属製曲がり尺八>少年・羽島宏志について

 羽島宏志は小説冒頭に登場し、また小説の最後をも飾る重要脇役。
    太平洋戦争の戦時下・米軍による空爆をさけるために鈴蘭台に疎開して来た「金持ちのボンボン」で、
    近くにダンスホールがあった山の手の高級住宅地に、ハイカラなマリ婆さんと一緒に住んでいて、
    父親譲りの金属製曲がり尺八(サクソフォーン)を所持し、
    それがうまく吹けるようになることを夢見ている少年として設定されています。

 「小部国民学校六年生」の中でも極めて異質なこの少年が小説の中でどのような役回りを演じるのか、
    小説の内容暴露にあたるので、ここでは詳細にすることができませんが、
    結論的にいえば、この少年の存在が、スパイスのように利いていて、
    『さよなら三角 また来て四角』という小説に、一筋の光明を与えています。

 <金属製曲がり尺八>少年・羽島宏志は、
    太平洋戦争の戦時下にあっては、ほとんど存在できないような、極めて特異な存在でしたが、
    六甲山麓の山間に開けた小さな町・鈴蘭台では、幸運にも存在しえた…、
    そうした稀有にして不思議な少年として描かれています。


 戦前〜戦後にかけて、鈴蘭台は「西の軽井沢」と呼ばれていました。
    神戸港を持ち、海外との交易で栄えた神戸の一角にありながらも、
    六甲山塊に囲まれ、周りから小隔絶されて、関西の避暑地として栄え、
    「鈴蘭台=西の軽井沢」文化ともいうべき特異な文化を発展させていた小さな町・鈴蘭台。

 羽島宏志という少年の存在は、彼が住んでいた町・鈴蘭台の特異性を暗示しておりますが、
    この鈴蘭台の特異性に注目し、その詳細を明らかにした人は皆無でした。

 『さよなら三角 また来て四角』の作者は、作中に羽島宏志という少年を登場させることによって、
    「鈴蘭台=西の軽井沢」文化への関心を初めて喚起したのでした。

    

         日本製電子オルガン第一号試作者・森岡一夫氏について

 『さよなら三角 また来て四角』に触発されて、にわかに「鈴蘭台=西の軽井沢」文化への関心を深め、
    いろいろ調べていて、羽島宏志の系譜に属すると思われる実在の人物・森岡 一夫氏に行き着きました。

 森岡 一夫 氏は 1937年の生まれで、1948年から1969年にかけて鈴蘭台に住んでいました。
    彼は「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の生き証人ともいうべき人で、彼の歩んだ足跡をたどれば、
    「鈴蘭台=西の軽井沢」にどのような文化が花開いたのか、
    また、その文化がどのような人たちによって担われたか、の片鱗を知ることができます。

 森岡 一夫 氏は、電子楽器メーカ、ヒルウッド/ファーストマンの創業者として知られ、
    その半生については、「Story Kazy Firstman & Mosrite」というホームページで知ることができます。
    本稿では、氏の鈴蘭台関連と電子楽器関連の情報に限って整理し、情報を開示します。
          *氏のプライベート情報を多く含んでおりますが、
           氏のホームページ上で、氏自身によって開示されたものばかりですので、
           不適切な個人情報の流布にはあたらないと考えました。

 森岡 一夫 氏の門地
    森岡 一夫 氏の養父は、山之内製薬(現・アステラス製薬)の創始者・山之内 健二 氏。
    健二 氏の妻は旧姓・森岡 光子という人で、池田輝政の家老として姫路城の築城に貢献した森岡家の末裔。
    森岡 一夫氏は、光子の弟・四郎の長男(1937年生)。

 森岡 一夫 氏と鈴蘭台
    山之内 健二 氏が鈴蘭台に別荘を購入したのは昭和15年(1940年)頃。
    空襲が激しくなった頃に、山之内一族は阪神間の屋敷から一時期、鈴蘭台に疎開。
    森岡 一夫 氏が鈴蘭台に住むようになるのは1948年。平野小学校や甲南中学〜甲南大学に通うため。 
    中学時代、森岡 一夫 氏は、近所に住んでいたアメリカ人の音楽家ジョン.グランツ氏からピアノを学んだ。
    高校時代、森岡 一夫 氏は、鈴蘭台にあった電気楽器(エレキギター)製作所・ニッカードに出入りし、
      まず友人達のギターアンプなどの設計製作を始めた。
    森岡 一夫 氏が大学に入学した頃、「鈴蘭台にはクーゲというドイツ人一家が住まいし、
      その家族と親しく特にその子供達の父親が森岡を可愛がって色々な技術を伝授してくれた。
      クーゲ氏はヨットの造船技師であり工作が得意であったため彼から学ぶところは非常に多かった」。
    森岡 一夫 氏は、米国から取り寄せた電子オルガンの技術書を基に数年掛けて研究を続け、
      1957年(昭和32年)、電子オルガン第一号機を自力で完成させた。
      電子オルガンの製作は山之内家の離れで行った。
    大学の一年の時、森岡 一夫 氏はバンドを結成し、神戸を中心に色々なステージに立った。
    大学時代には、近くに住んでいた関西学院大学の学生・N氏と懇意になった。
      (N氏は鈴蘭台混声合唱団(SPC=鈴蘭台セルハーモニックコーラス)というコーラスグループを結成した人)
    森岡 一夫 氏は、大学卒業後、株式会社河合楽器製作所に入社。
      河合の下請工場・テスコで、電子オルガンの製作にかかわる。
    森岡 一夫 氏は、河合楽器製作所を退社後、
      神戸のテスコ直営楽器販売会社(ミナト楽器)のオーナー社長兼テスコの常務取締役になる。
    森岡 一夫 氏は1963年の新婚当初、鈴蘭台にある山之内家の離れに住んでいた。
    1965年(昭和40年)に日本中に第一次エレキブームが勃発。
    1967年(昭和42年)、森岡 一夫 氏は独立してファーストマン楽器製造株式会社を創立し、
      日本で初めてモズライトギター(モズライトアベンジャー)等を製作し、
      エレキギターの一大ブームを巻き起こした。
      ファーストマン楽器製造株式会社の工場は神戸にあった。
    1968年(昭和43年)年初から、ファーストマン楽器製造株式会社東京工場が操業を開始し、
      アンプや電子オルガンの試作に入った。それと同時期に東京営業所を都内の中心地に構えた。
    1969年、山之内 健二 氏の逝去にともない、森岡 一夫 氏は相続権を放棄して、鈴蘭台より転出した。
    

         「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の担い手たち

 『さよなら三角 また来て四角』ワールドと森岡 一夫 氏の共通項
   『さよなら三角 また来て四角』の舞台が太平洋戦争末期の鈴蘭台であるのに対して、
    森岡 一夫 氏がご活躍されるのは戦後の鈴蘭台。
    この時代的なズレがある両者には、多くの共通項があります。

 鈴蘭台に別荘を持つ人たちがいた
   森岡 一夫 氏は山之内製楽(株)の創業者一族に属していましたし、
   『さよなら三角 また来て四角』では、神戸、西海岸の重工業地帯にある白石製鉄の
    創業者一族のお嬢様が、英国製らしき高級車で、小部国民学校に登校する場面が描かれています。

 外国人が住んでいた
   森岡 一夫 氏のHPには、アメリカ人の音楽家ジョン・グランツ氏や
    ドイツ人のヨット造船技師・クーゲ氏が鈴蘭台に住んでいたという記述があります。
   『さよなら三角 また来て四角』では、帝政ロシアの領事館員であった亡命ロシア人一家が住む
    北欧風の瀟洒な邸宅(ロシア人の館)に、敵国イギリス領事館家族が同居していたという
    設定になっています。
   神戸は国際的な港町なので、戦中・戦後にも多くの外国人が居住していて、
    神戸旧居留地に事務所を構え、神戸北野や鈴蘭台に本宅や別荘を所有していました。

 別荘地・鈴蘭台の階層構造
   大別すれば、上流階層(日本の実業家一族・外国領事館や外国人貿易商家族など)と、
    その他の階層の2階層に分かれていました。
   上流階層は、ダンスホールなどの社交場を持ち、また、森岡 一夫 氏の記述にもあるように、
     その子弟が英会話やピアノなどの個人的レッスンを受けたりもしていました。
   「その他の階層」は、鈴蘭台が六甲山の山間を切り開いて造成された新興住宅地だったことから、
     その多くは転入して間のない人たちで、雑多な職業に従事していました。

 森岡 一夫 氏が語る鈴蘭台は、上流階層の見た鈴蘭台であり、
   『さよなら三角 また来て四角』は、その他の階層に属する知識人の見た鈴蘭台でした。
     

      「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の成果(1) 日本エレキギター発祥の地

 戦中から戦後にかけて花開いた「鈴蘭台=西の軽井沢」文化は、どのような内実をもった文化だったのか ?
   この設問に答えられる人がいません。
   それでは、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化はとるに足りない文化だったのか ?
    と問われると、そうでなないのではないかという、強い思いが招来します。
    ただ単に「鈴蘭台=西の軽井沢」文化への関心が低かっただけ…そう強弁したい思いがつのります。

 地元・鈴蘭台にあっても、高齢化が進んで、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を知る人がを知る人が数少なくなりました。
   ここらあたりで、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を知る人が声をあげて、
   その記録を後世に遺す作業にとりかかる必要があるのではないか。
   そう考えて、まず隗より始めよ、
   「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の成果とおぼしき事例を紹介することにしました。

 鈴蘭台は日本エレキギター発祥の地だった ?!
   森岡 一夫 氏のHPに以下のような記述があります。
    「関西のニッカードは、現在の神戸市北区鈴蘭台で事業を開始したが 10年ほどで自然消滅した。
     そのニッカードで製作していた電気楽器に興味を持ち学生時代に通い続けた人物がいた。
     その人物がテスコと合流後、独立してファーストマン楽器製造株式会社を創立し、
     日本で初めてモズライトギター等を製作しエレキギターの一大ブームを巻き起こした」
    「森岡は高校時代から前記のニッカードに出入りし、
     まず友人達のギターアンプなどの設計製作を始めた。
     それらの技術を発展させ米国から取り寄せた電子オルガンの技術書を基に数年掛けて研究を続け
     1957年(昭和32年)若干20才で電子オルガン第一号機を自力で完成させた」

 ベンチャーズが来日公演を行ったのは1965年(昭和40年)、ビートルズの来日はその翌年。
    日本中にエレキギターの一大ブームが巻き起こりますが、
    それより 10年以上も前に電気楽器を製作していた工場「ニッカード」が、鈴蘭台にあった。

 「ニッカード」の工場は、鈴蘭台のどこにあったのか ? その跡地は今、どうなっているのか ?
    いろいろな人に尋ねましたが、それを知る人がいませんでした。

 が、『さよなら三角 また来て四角』の出版がご縁で、その謎が解けました。
    『さよなら三角 また来て四角』の作者・平 龍生 氏から以下のようなメールをいただきました。
     「ニッカード」については、ほぼ、間違いないと思いますが、
     実は旧平宅(当時は武庫郡山田村小部子安場十二番地)(現鈴蘭台東町1丁目12)の拙宅の
       まん前の家(現駐車場)が『西門』の名前で、二十代の息子が二人おり、
       ギターか、ヴィォリンかの楽器を製造しておりました。
       表に、ニス掛けした木型が干してあるのを目にしました…。
   「ニッカード」という名は、西門という苗字に由来するらしい、とのことです。

 「ニッカード」の工場は東京にもあって、神戸とどちらが先にできたのか、確認できていませんし、
   「ニッカード」が本邦初のエレキギター製造所なのかどうかすら、よくわかっていません。
   「鈴蘭台は日本エレキギター発祥の地だった」と断定するには、少々裏づけ調査不足ではありますが、
   第一次エレキブームが起こる 10年以上も前に、鈴蘭台にエレキギター製造所があったこと、
   更には、日本で初めてモズライトギター(モズライトアベンジャー)を製作した森岡 一夫 氏が、
   鈴蘭台と切っても切れない深縁にあったこと、などを考えあわせるとき、
   小さな町・鈴蘭台が当時、時代の流行の最先端近くを快走していたことを
   素直に認めるほかないと思うのです。

 「たかがエレキギター」ではありますが、「されどエレキギター」でもあります。
   日本中の若者たちを熱狂の渦の中に巻き込んだ第一次エレキブーム…、
   それを 10年以上も前に先取りし、先導できる頭脳、技術、時代感覚等は、一朝一夕には獲得できません。
   鈴蘭台に「西の軽井沢」文化の蓄積があったればこそ、それが可能だった、
   と考えるが自然と思うのですが、どうでしょうか…。
      

         「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の成果(2) 『さよなら三角 また来て四角』

 「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の生き証人ともいうべき人は、森岡 一夫 氏の他にも存在します。
    本稿で何度も名前がでてきた作家・平 龍生 氏もまた、鈴蘭台と切っても切れない深縁にあり、
    この人を語らずして、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を論ずることはできません。

 オール読物新人賞受賞作『「真夜中の少年』(1972年)、横溝正史賞受賞作『脱獄情死行』(1983年)などの
    小説の作者として知られる平 龍生 氏。
    氏もまた「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の申し子で、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を滋養分として作家になり、
    「鈴蘭台=西の軽井沢」文化に新たなる彩をそえる人となりました。

 「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を論じるためには、氏の主要著作をつぶさに検討する必要がありますが、
    本稿では、その十全な準備がなされておりません。
    本稿では、最新作『さよなら三角 また来て四角』と、その背景となった太平洋戦争末期の
    「鈴蘭台=西の軽井沢」文化のありようとの関係に限定して論及することにします。

 「西の軽井沢=鈴蘭台」の階層構造をもう一度整理してみましょう。
    森岡 一夫 氏が属していた上流階級に属する少年たちは、
     『さよなら三角 また来て四角』では、
      白石製鉄の創業者一族のお嬢様や金属製曲がり尺八少年・羽島宏志など 
      空襲が激しくなった頃に鈴蘭台に疎開してきた<都会派>として、
      また、ロシア人の館に同居する敵国イギリスの少年・ハリスは<国際派>として登場します。
      勇輝や権太、門倉伸一郎グループは、鈴蘭台の<地元=田舎>派として、
      <都会派><国際派>に対することになります。

 <都会派>や<国際派>は少数派であるにもかかわらず、
    財力にものをいわせて高い文化を保持し、立ち居振る舞いがスマートで、
     鈴蘭台の<地元=田舎>派にとっては、羨ましくも妬ましい厭な存在となります。

 こうして、ハリス少年暴行事件が発生します。
    やったのは、地元の悪ガキグループ・門倉伸一郎派。
    彼らには、敵国イギリスの少年を懲らしめるという大義名分がある。

 <地元=田舎>派には、この門倉伸一郎グループと少し違う別派(中間派)があって、
    主人公・勇輝や権太は、門倉伸一郎グループに組しません。
    勇輝や権太は、ハリス少年暴行事件を偶然目撃しますが、
    門倉伸一郎グループに加担せず、止めにも入らず、
    門倉伸一郎グループに見つかると、彼らの襲撃を恐れて逃走します。

 勇輝や権太は、この事件を告げ口せず、門倉伸一郎グループと和解、
    大きな池で一緒に泳いで遊んだりもします。
    その一方で、勇輝は羽島宏志の家や白石家の屋敷を訪ねたりもします。

 <地元=田舎>派でありながら、金属製曲がり尺八少年・羽島宏志と仲良くできる主人公・勇輝。
    この主人公は、小説の作者・平 龍生 氏の分身であって、
    平 龍生文学の「西の軽井沢=鈴蘭台」文化に占める位置取りもまた、
    中流階級に属する<地元=田舎>派でありながら<都会派><国際派>的要素をも兼備する、
    中間派ともいうべき所にあったことになります。

 文化は高きより低きに流れます。高き文化の保持者が少数派であっても、
    また抑圧されたり、征服されたりしていても、文化は高きより低きに流れます。
    そして、その高きより流れた文化を受容する側は、
    より多くを受容する派と、余り多くを受容しない派との二派に別れます。
    この二様の文化の変容が起こる時期は、新しい文化創世のチャンス期でもあります。
    異質な文化を多く受け入れた派がより高度な文化を築くこともあれば、
    異質な文化の侵食を拒んで己の文化を純化させた派が栄えることもあります。

 戦前〜戦後にかけて栄えた「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を支えたのは、
    少し高き文化をもつ<都会派><国際派>と、その高きより流れた文化をより多く受容した<地元=田舎>派で、
    平 龍生 氏は後者の代表格ともいえる人であったことになります。

 筆者は本稿の冒頭近くで、「平 龍生 氏の開明性」を指摘しました。
    平 龍生文学は、氏のまわりにあった、氏にとって少し異質な「鈴蘭台=西の軽井沢」文化を
    積極的に受容するところから出発した文学であり、その時に受けた新文化の衝撃に比べれば、
    その後の文化の受容(新しいIT文化を取り入れる等)は易々としたものであった、と思料されます。
    

         以下、工事中です !

      続稿としては、「鈴蘭台=西の軽井沢」文化の限界
               <「鈴蘭台=西の軽井沢」文化・考>余話 ビートルズ来日とエレキブーム
                の2項を執筆の予定です。
  
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  「鈴蘭台=西の軽井沢」文化・考

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