須磨の句碑 芭蕉・現光寺 * | |
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現光寺は「源氏物語」の物語の主人公・光源氏の住居跡と 伝えられ、もとは「源光寺」「源氏寺」ともよばれていました。 寺の入り口に「源氏寺碑」という石碑があります。 住所:神戸市須磨区須磨寺町 1-1-6 電話:078-731-9090 アクセス:山陽電鉄「須磨駅」から東へ徒歩約 5分 |
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現光寺境内 現光寺は阪神淡路大震災で倒壊、 本堂など再建されて、写真のように目新しい寺となりました。 |
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現光寺境内にある松尾芭蕉句碑 見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋 芭蕉 (昭和12年2月西須磨協議会により建立されました) 延宝6年(1678年)松尾芭蕉35才の作。 芭蕉が「源氏物語」須磨の巻の舞台を訪ねたのは春で、 名月を見るべくもなく、その無念さを詠んだ句で、 「三段切れ」の名句といわれていますが、 ただ、中七が字余りなので、作者が芭蕉ではなくて、 たとえば小生が詠んだとすれば、「ながむれば見れば」は 「ながむれ見れば」と添削されるところでしょう。 俳子の添え句(パチリ句) 須磨の浦 ふりさき見れば 春の月 俳子 |
芭蕉の足跡をたどる旅 序文 | |
俳句を始めて10年…、 越えようとしても越えられない壁があります。 芭蕉の句は言葉が艶やかで格調高いですが、 俳子の句には間延びした言葉の羅列があるだけで、 句相も月並みです。 わずか十七文字なのに、どうしてこうも違うのでしょう。 300年以上も前に芭蕉が訪ね歩いた須磨の地を訪ね、 芭蕉が目にしたであろう景を俳句に詠んで、 いろいろ考えてみました。 (右列・文頭に続く) ![]() 須磨全景 |
(左列・文末より続く) まず訪ねたのは現光寺。この境内に芭蕉の句碑 見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋 があります。 芭蕉が須磨の地を訪れたのは、「源氏物語」の主人公・ 光源氏が、この地に侘び住まいしたことによります。 わびしい漁村に身を潜め再起を果たさんとする光源氏。 「源氏物語」はこの「須磨の巻」から書き始められます。 芭蕉は光源氏が見たであろう須磨の名月を見たかった。 名月を見るなら須磨・現光寺…。 が、光源氏は「源氏物語」の中のみに在りて実在しない人物で、 原作者・紫式部も須磨を訪ねたことはありません。 紫式部は、その約100年前に「在原行平が須磨に3年間 侘び住まいをし、都の月を偲びながら須磨の名月を愛でた」 とされるのをヒントにして、須磨の巻を書きました。 安和の変(969年)で左遷されて須磨に流された 左大臣・源高明がモデルという異説もあります。 いずれにしても、芭蕉はありもしない「光源氏の月」を 求めた? ことになります。芭蕉の須磨足跡をたどる旅に 出た俳子は、出鼻をくじかれた? とは考えたくありません。 人はいろいろな欲望に突き動かされて、いろいろに行動します。 芭蕉は日本文化に造詣が深く、「源氏物語」にあこがれて さまざまな旅をしました。それは、「源氏物語」700年後の <「虚」に満ちた楽しみ>を求める旅でした。 それから300年、名もなく実績もない俳子の旅が始まります。 たいした成果も期待されない旅…、しかし、 それは、<「虚のそのまた虚」を求める旅>、 千年の時空を超えた旅…なのかもしれません。 片雲の 風に流離ふ 須磨の秋 旅人の 心も知らで 須磨の秋 俳子 「片雲の風」は、「奥の細道」序文の「予もいづれの年よりか、 片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜に さすらへ…」より転用(丸写し)しました。 |
現 光 寺 豆 知 識 | |
現光寺は浄土真宗西本願寺末。 千森川の東岸にあり、 もとは源光寺とも書かれていました。 永正11年(1514年)、浄教上人の開基といわれ、 本尊は阿弥陀如来です。 現光寺の近くに 「藩架(ませがき)」とか「ヤグラ」という字名が残っていて、 古代の須磨の関跡だともいわれています。 |
芭蕉が須磨を訪ねたとき泊まったのが、現光寺の風月庵。 この宿泊日が4月20日だったことから、須磨では、この日を 「芭蕉の日」と呼んでいます。 この日を記念して、芭蕉の足跡をたどりながら芭蕉にまつわる クイズを解く「芭蕉学検定ウォーク」などが開催されています。 コース:JR須磨駅~現光寺~菅の井~天井川~板宿駅 約 7.5km(平坦なコース・家族向け) (開催日、コースはその年によって違います) |